責任追及と原因追究は、別のものです
どちらも「原因を明らかにする」ように見えます。ただ、問いの向きが違うので、たどり着く先も変わります。
| 責任追及 | 原因追究 | |
|---|---|---|
| 問い | 誰がやったのか | 何が起きたのか |
| 行き着く先 | 人 | 仕組み・プロセス |
| 次の一手 | 気をつける・意識する | 仕組みを変える |
| 再発 | する(人は入れ替わる) | しにくい |
見分け方は、出てきた対策を見ることです。「気をつける」「意識する」「確認を徹底する」になっていたら、それは人に着地しています。原因追究なら「◯◯を自動化する」「××のチェックを仕組みに入れる」という形になります。
対策が人の心がけになっているとき、犯人さがしをしたつもりがなくても、結果としてその人にだけ荷物を持たせたことになります。そして次に同じ場面が来たとき、荷物を持つのは別の人かもしれません。
非難は、説明責任を生みません
「責任を追及しないと、みんな緩むのではないか」という心配はもっともです。けれど実際に起きるのは、その逆だと言われています。
非難する文化は、説明責任を生みません。生むのは隠蔽です。罰を予期する人は、自分の関与を最小限にしか語らなくなります。組織は消毒された物語を受け取り、何も学びません。見えないものは、直せません。
John Allspaw「Blameless PostMortems and a Just Culture」(2012) の主張より
障害の中身をいちばん詳しく知っているのは、その場にいた人です。その人が「言ったら怒られる」と思った瞬間、いちばん価値のある情報が出てこなくなります。組織は、きれいに整えられた話だけを受け取ることになります。
「責めない」は、免責ではありません
非難をやめようと言うと、たいてい「では誰も責任を取らないのか」という反論が返ってきます。そうではありません。これは約束です。
「あなたが何をして、何を見て、何を期待し、なぜその行動が当時は妥当に見えたのか。そこまで詳しく話してくれるなら、それを理由にあなたを罰しない」という約束です。罰することのほうが、そのミスよりずっと高くつくからです。
「反省会」には、名前がついています
安全工学のSidney Dekkerは、説明責任の取り方には2つあると整理しています。
| 応報的な取り方 | 修復的な取り方 | |
|---|---|---|
| 問い | どのルールが破られたか 誰がやったか どんな処分が妥当か | 誰が傷ついたか その人たちに必要なものは何か それを満たす義務は誰にあるか |
| 「申し開き」とは | 支払わせるもの | 語らせ、周りが聴くもの |
| 関わる人 | 当人と、その上司 | 当人・影響を受けた人・同僚・周囲 |
| 向き | 過去(誰の責任か) | 未来(何を修復するか) |
Dekkerは、応報的なやり方について次のように指摘しています。
- インシデントの隠蔽と、報告のしにくさに結びつく
- システムの側の要因を見つけないため、再発を招く
- 人を辞めさせるための、鈍い管理の道具になりうる
- 組織の中で力を持っている人ほど、自分たちの応報的なやり方を「公正だ」と感じる
つまり「反省会」には、ちゃんと名前がついています。応報的な説明責任の取り方です。悪意があるわけではなく、多くの場合はただ、それしか知らないだけです。
なお、Dekker自身の考え方もここ10年ほどで動いています。『Just Culture』という本は、版を重ねるなかで修復的正義の議論を大きく取り込み、いまでは『Restorative Just Culture(修復的な公正の文化)』というタイトルになりました。「責めない」だけでは足りず、壊れた信頼と関係を修復するところまでが説明責任だ、という方向へ進んでいます。
「なぜ」という問いは、人に向かいやすい
原因を掘るとき、私たちは「なぜ」と聞きます。ここが分かれ道になります。
「なぜ確認しなかったのか」と聞かれた人は、自分の落ち度を説明することになります。問いの形が、答える人を被告席に座らせてしまうからです。そして「なぜ」を重ねるほど、答えは人の内面に近づいていきます。注意不足だった、意識が低かった、確認を怠った。
ここで問いを変えます。
| 人に向かう問い | 状況に向かう問い |
|---|---|
| なぜ確認しなかったのか | 何があって、確認できなかったのか |
| なぜ気づかなかったのか | そのとき、何が見えていたのか |
| なぜその判断をしたのか | その判断をしたとき、手元にどんな情報があったのか |
右側の問いには、状況が答えとして返ってきます。通知が別のチャンネルに流れていた。手順書が2つあって古い方を見ていた。前日から続く対応で判断する余裕がなかった。どれも、変えられるものです。
なぜなぜ分析は、やり方次第です
「5つのなぜ」を繰り返す進め方は、日本の製造業を中心に広く使われてきた実績のある方法です。一方で、ソフトウェアの障害対応の文脈では、その限界も指摘されています。
Allspawは「The Infinite Hows」(2014)で、5つのなぜにはトンネル視野という失敗の型があると書いています。5つの答えが一本のきれいな因果の鎖を作りますが、実際のインシデントには複数の原因があり、鎖はそのうちの一本をなぞっただけかもしれない、という指摘です。そして「なぜ」は帰属を招きやすく、問いを重ねるほど「誰が」に行き着いてしまう、とも述べています。
これは「なぜなぜ分析を使うな」という話ではありません。掘り方の問題です。次の3つを守れば、なぜなぜ分析は強力なままです。
- 一本道で終えない。一段掘るたびに「他にも要因はありませんか」と枝を広げる
- 「なぜ」を「何があって」に言い換える。人ではなく状況に向ける
- 人の性質に着地したら、掘り方が間違っている合図だと考える。注意不足・意識が低いといった答えが出たら、そこからもう一段、仕組みへ降ろす
ふりかえり実践会の5つのなぜのページにも、同じ趣旨のポイントを書いています。「『なぜ』を避けて『何があった』にしてみよう」「うまくいったことに対しても掘り下げをしよう」「真因が見つかったら、逆にたどって論理が正しいか検算しよう」。
ここまでのまとめ
- 責任追及と原因追究は、問いの向きが違う。出てきた対策を見れば、どちらをやっていたか分かる
- 非難は説明責任ではなく隠蔽を生む。見えないものは直せない
- 「責めない」は免責ではなく約束である
- 「反省会」は応報的な説明責任の取り方。そして考え方は「修復的」へ動いている
- 「なぜ」は人に向かいやすい。「何があって」に言い換える